MIHO(フォトグラファー/saji 主宰)
MIHO(ミホ) 東京都まれ。東京総合写真専門学校中退。カメラマンのアシスタントとして師事した後、独立。2010年、友人と共にフリーペーパーを発行。2004年saji 本格開始。PRのため、パリに渡る。2013年よりパリ在住。フォトグラファーとして活躍する傍ら、勢力的にsajiを展開する。「リンゴを半分に切るだけであなたの人生は変わる」(プレジデント社)著者。
楽しく美味しく「食」に触れて
10年後の自分の体を考える
食材、食事、食文化… 美しく楽しく演出し、「食」をより身近に、より素敵に思ってもらえるよう演出する雑誌saji。プロのフォトグラファーで、sajiの発起人でもあるMIHOさんは、小さい頃の寂しい生活のコンプレックスを咀嚼し、原動力に昇華させた。「今、食べているものが10年後のからだを作る」をモットーに、様々なクリエイターとコラボレーションしながら、とびっきりエッジーでかっこいいモノ作りを展開している。
ちゃんとしたものを食べていますか?
24歳のある日、仕事に明け暮れ不規則な生活を続けていたMIHOさんは体調を崩し、医者に診察に行った。そこであることを言われた。
「ちゃんとしたものを食べていますか?」。
MIHOさんは思わずきょとんとしてしまった。「ちゃんとしたものを食べるってどういうこと?」と問うMIHOさんに、医者は更に聞いた。「あなたは普段何を食べていますか?」。
「ラーメンと卵が主食」と答えたMIHOさんに、医者は切々と説いた。「健康を維持するには、食べ物が大事」。
そんなこと初耳!とMIHOさんは驚愕した。
現在でこそ、世界的な「健康ブーム」によって、健康維持のため、もしくは美容のために、常日頃から「体の良いモノ」を口にすることが当たり前のようにされているが、当時の日本ではまだそのような考えは一般的ではなかった。MIHOさんのように「健康に無頓着」なのが、普通だったのかもしれない。
「今、食べているものが数年後の自分のからだを作る」。そんな考えは、この時のMIHOさんは想像さえすることもできなかった。
saji ozoni、パリの打ち上げにて。
「美味しい」記憶がない
そもそも、食べることにまったく執着がなかったというMIHOさん。食事に対して「美味しい」や「楽しい」という記憶がない。
共働き家庭で育ち、鍵っ子だったMIHOさんが学校から帰宅すると、食卓の上にはいつも母からのメモがあった。「冷蔵庫のものをチンして食べなさい」。兄は要領よく友人宅で夕食をご馳走されてくることが多かったが、MIHOさんはそんな「才能」を持ち合わせていなかった。冷蔵庫の中に何もない時は1000円札が置いてあり、隣のラーメン屋さんでチャーシュー麺をすすることが日常だった、と語る。決してラーメンが好きだったわけではない。それは、空腹を満たすため、そして生きるため必要なカロリーを摂取するための行事としか思っていなかったからだ。母親が料理を作っている姿もあまり記憶にない。家族で外食することはあったが、それもご飯を作るのが面倒だから、と言った理由の場合が多かった、とあっけらかんと語る。
「ごはん食べるの好き?って聞かれたらきっとそんなに好きじゃない、って答えていたと思う」。
イベントで手掛けるケータリングでは、イラストも描くことも。
雑誌が好き
グラフィック・デザイナーの父、彫刻家の母。いずれ自分もアート関係の職に就くんだろうな、となんとなく思っていたMIHOさんは「オリーブ少女」で、小さい頃から雑誌が大好きだった。雑誌社で働きたいけれど、編集者は良い大学を出ていないと難しいかもしれない。だったら「カメラをやろう」と思い、東京総合写真専門学校に進学する。
学校では、カメラの使い方、現像方法や、色彩の勉強など、様々な知識を身に着けることができた。しかし、いずれは雑誌や広告の分野で働きたい、「商業的な方向に進みたい」と考えるMIHOさんは、芸術的な写真家を育てたいという講師と折り合いが合わず、一年半で退学することを決意する。在学中から、ファッション誌のカメラマンのアシスタントとしてアルバイトしていたが、学校を辞めてから本格的に、主に広告写真で活躍する横見肇氏に師事することになる。横見氏の元で2年半働いた後の一年半は、メンズ誌で活躍するカメラマンの元で経験を積んだ。
そして2000年、24の時、独立する。
不規則な生活がたたって
アシスタント時代は、食生活が著しく悪化した。まず、食べる時間(タイミング)がない。食べ物はおろか、時には一日中水でさえ口にすることさえ難しい日もあった。睡眠時間も極端に短く、眠すぎて脚立から落ちたこともあったほど。そんな不規則な生活と食生活が、どんどん身体を蝕んでいった。
saji ozoni、パリの打ち上げにて。
独立すると、まずはクライアントを探す作業から始まった。女性誌とのコネクションが皆無だったため、友人と作品を撮りためた。オーストラリアを訪れた際に見かけた「とってもかわいいレシピ本」に刺激を受けて、作ってみた小さなレシピ本もその中のひとつ。A3サイズの紙に切れ込みを入れて折るという簡易本。後のsaji(匙)の前身となるものだ。
それら作品を編集部に送った。そして「運よく」、雑誌の読者プレゼントページのレギュラーの仕事をもらえることとなった。その後、スナップ写真のページも任せてもらえることとなり、「地方のおしゃれ女子の一日レポ」等手掛けるなど、日本中を旅してまわるようになる。それらの仕事で得る報酬で、器材を買い足し、カメラマンとしても着々活躍の場を広げた。若いから故のフットワークで、重い器材を抱えながら日本中を駆け巡る。一週間家に帰らないことも多かった。「楽しかったけれど、とってもタフな仕事でしたね」。
そんなある日、腹部にしこりが見つかり、手術で摘出することにまでなってしまった。そこで前述の医者に言われたのだ。「あなたは普段、どんなものを食べていますか?」と。
少女時代に比べると、「比較的きちんとした」食事(お弁当)をとってはいた。しかし、不規則な生活に変わりはなかったし、「野菜をきちんととろう」と心掛けるところまで、意識は行っていなかった。
料理を難しいと思う人のために
雑誌の仕事では料理ページを担当することもあった。スタイリストが料理を作っているのを見て、「意外と簡単」なのに、とっても美味しいのに驚いた。また、担当していた人気の「ダイエットページ」で、寒天ダイエットを取り上げることになったのだが、間違ってはいないけど推薦できない手法があることを忠告すると、編集者に「自分でやってみれば?」とアドバイスされたのだった。そこで、料理に全く縁のない、MIHOさんのような人に向けて、「本」を作ってみようと思いついた。予算はないので、自分でできる範囲のもの。写真はMIHOさん。そして、友人のアートディレクターとフードスタイリストとのコラボレーション。名前はsaji(匙)と命名した。
saji フリーペーパー
まず、編集人や友人といった身近な人に配ってまわった。当初は、「作りたいものを作る、というスタンスだったので、お店に売ってもらおうということは特に考えていなかった」が、たくさんの人に読んでもらいたいという願いから、都内のカフェにも置いてもらえるよう頼んで周った。しかし、当時まだ「食育」というコンセプトは人々の意識の中には植わっていない。やっとスローフードがじわじわとブームになっていたようなご時世で、「何の目的で置くんですか?」と冷たくあしらわれることがほとんどだった。
日本では難しい…そう思ったMIHOさん。そこで漠然と思いついた。
「そうだ、パリのお店に置いてもらおう!」。
MIHO著者本。「リンゴを半分に切るだけで、あなたの人生は変わる。」
続けないと意味がない
こうして一年間、フランス語の特訓が始まった。そしてその間、フリーペーパーを4号発行した。売り物ではなく、あくまでもフリーペーパー(無料)なため、モデルも含め、スタッフは皆無報酬。そして印刷代は全てMIHOさんが自腹を切った。フランスの読者を意識し、英訳もつけた。
saji1.0より 野菜のケーキのポスター
2007年、「そろそろ私の仏語も本場で通じるか」と思った頃、フランス行きを決行。知り合いもツテもなにもないパリでは、通じると思っていたはずの言葉もまったく理解してもらえなかったが、それでも、一生懸命伝えようとした姿勢が評価されたのか、出会う人々に親切にしてもらえた、と懐かしそうに語る。10日間の滞在期間中、予めチェックしていたお店を記した地図を片手にメトロを乗り継ぎ、一軒一軒置かせてもらえるようお願いしてまわった。「クローン食、食べたいですか?」といった食育的なテーマが受けてか、本屋、カフェ、「コレット」(2017年閉店)のようなセレクトショップ等で、sajiを置いてもらえることになった。ある店では、「うちでイベントしない?」と誘われたりと、日本とは全く異なる反応に面食らった。そんな中、sajiを置いてくれた書店の担当に、「とっても面白い。でも続けていかないと。定着させないと価値はない」と言われたのだった。
コンプレックスを乗り越えて
日本に帰国してから、フランスで「無料で配るのはもったいない」と言われたことを、何度も思い返し、考えた。このままでは資金も続かない。ここで思い切って、雑誌として、売り物として作っていけたら… 充実した内容を提案して、お金を出して買ってもらえるようになったら、これからも長い視野で続けていける…
こうして、saji第一号の制作にとりかかった。毎回フォーマットを変え、自由に展開していく雑誌、それは本と言うより、モノを作ると言った方が正しいかもしれない。とは言っても、それまでのやり方となんら変わったことはない。本業の仕事はそのまま進行。全てが自己投資。参加者は皆ボランティアだ。それまでも無償で協力してくれていた様々なクリエイターに改めての参加を打診すると、「好きにやらせてもらえる。楽しくモノづくりができるのなら」と、快く受けてくれた。語りながらも思わず「とてもありがたいことですよね」としみじみ。(第2号からは、仕事として発注しているが、中には報酬を受け取ってくれない人もいるのだとか)。
saji1.0より、ブラックバーガー Food by Kentetsu Koh
「いま食べているものが10年後の身体を作る」と明確にコンセプトを掲げた。しかし、ただ単にレシピを紹介するのではなく、食べる喜びを知ってもらい認識してもらいたい、という願いを込めた。「死ぬ前に食べたいものは?」と言った一見深刻な質問を問いかけ、食べることに対して考えてもらいたい。それも、とびっきりかっこいいビジュアルで目を引くことによって、ごはんに触れるきっかけになってもらえたら本望だ、と思った。
saji2.0より、天丼 Food by Kentetsu Koh
小さい頃、訪れた友人宅で、お母さんの手作りパンケーキをごちそうになった。「ふわふわしてて、美味しくって。でもその分だけ、自分のうちがなんだか空しくなったんです」。それはひとつのコンプレックスとして、MIHOさんの体内に潜んでいた。「そのコンプレックスを抱えて生きていくのか。それとも自分の中に取り込んで、違う形でアウトプットしていくのか。飲み込んじゃったほうがいいじゃん、って思ったんでしょうね」とのほほんと語るMIHOさん。
かくして、かつて医者に「体に良いものを食べなさい」と叱られたその人が、世界に「楽しく食事をして、未来の自分の身体を作り上げていきましょう」と発信する立場となったのだった。
「食の人」と呼ばれるように
2008年3月。一号目が完成したは良いが、販売していくに当たって壁にぶつかった。「どこで売ってもらえばよいのだろう…」。当時の日本では、未だ食に対しての関心が低く、食の本もまだまだ少なかった。アートと料理の境界線上に位置するsajiは、どのコーナーに配置してもらえば良いのか。できたら料理コーナーで勝負をしたい。しかし理解を示してくれる書店は極めて少なかった。
saji2.0発売イベントはパリで開催。
2009年、パリでsaji2.0発売イベントを開催。会場では訪問者にドーナツをシェアするための大きな山の様なケーキを用意し、sajiの趣旨を丁寧に説明していった。すると、いとも気楽に「うちにおいていいよ」と、数々の人から提案されたのだった。saji2号目からは、本格的に仏訳も導入(一号目も一部仏語訳あり)。二号目からは、日本語・英訳・仏訳の三か国語体制とした。
saji wagashi より illustration by Postics
テーマは、MIHOさんが「これ面白いな」と思ったことが発端になることが多い。そのためか、実にバラエティーに富んでいる。4冊目はsaji wagashiその名の通り、和菓子をテーマにした号を発表。季節に沿って、または「無常」や「名残」など日本独自の哲学と重ねながら、自由に展開していった。(この号は後に完売となり、再発行を希望する声が後を絶たないのだとか)。和菓子シリーズ第二弾、saji wagashi asobi、では「おもてなし」がテーマとなった。これも、日本の伝統的な「おもてなし」を説明するのではなく、「ドラキュラさんが遊びに来たらどうする?」といった遊び心を加え、あえてずらして紹介した。
saji wagashi asobiより。この号で全国カタログポスター展で金賞を受賞した。
2013年には、日本外務省のイベントで、団子やおにぎりの子供向けのワークショップを行い、フランスの子供たちに日本食材を知ってもらえる機会に恵まれた。その他、コレットでの食イベントを企画するなど、日本の食文化を広めるため、尽力した。
在仏日本外務省で催された「onigiri」イベント
日本では、sajiを見てくれた某老舗デパートから声がかかり、スイーツイベントにおいての見せ場を任されることになり、その後クリスマスカタログの依頼も舞い込んできた。
また、スイーツイベントを機に、2015年から3年間、「全国お雑煮巡り」と題されたイベントのディレクションを担当。これが、2019年1月発売のsaji最新号「ozoni」にと繋がっていったのだった。
好きなわけではないのに何故かいるフランス
フランスでの仕事が増えていくうちに、本格的にフランスに移住することを決意。しかし、イベントディレクションと写真の仕事で、日本とフランスの往復を繰り返していくうちに、急性胃腸炎で倒れてしまったMIHOさん。「こんな生活は続けられない…」。日本に帰ることを減らしていこうと決めた。
実は、パリが特に好きなわけではなかった。物価は高いし、特別な思いや憧れがあったわけではない。フランス語は全然上達しないので、コミュニケーションをとるのは英語だけ。なのに、なぜパリに住むことにしたのか。「とりたてた理由があったわけではない。でもフランス人がsajiを好きでいてくれるのが嬉しかったし、日本ではできないことをやらせてもらえる。それが面白いって思ったんでしょうね」とまるで他人事のよう。フランスで暮らすようになってからは、人間関係で悩み、落ち込むことも多々あった。「日本に帰れなかったわけではない。あんなに苦しい思いをしたのに、フランスに居続けている。きっと引き留められる要素があるんでしょうね…」。
Fricote magazine Illustration by POSTICS Food by Terumi Shida
sajiのファンだという人物が立ち上げた某食雑誌の編集長を「やってもらえないか」と頼まれたが、「編集をやりたいわけではないので」断った。その代わり、同雑誌で連載を持つことになった。「見て楽しい食コラボ」と称する見開きのページでは、「子供の頃食べていたアメの話」や「白雪姫のデコ弁」…などMIHOさんが提案するテーマとアイデアを元に、コラボレートするアーティストと共にビジュアルを作り、ライターが執筆した文章を添えて掲載した。
その他、(パリで大ブレイクする前)GYOZAのポップアップストアを立ち上げたり、子供向けの「食ルール育」アトリエや、オノマトペ(擬音語)アトリエなどイベントの企画、また新商品開発のアートディレクション、考案等、実に様々な食分野で活躍するようになった。
自分に課した目標
「本職」である写真の仕事の方では、軌道に乗せるにはかなり時間がかかったという。日本同様、ライバルの多い業界、尚且つフランスでのフォトグラファーとしての経験も少なかったため、仕事を得ることは難しく、ことさらエージェントの必要性を感じた。「この人と一緒に仕事をしたい」と予てから憧れていたエージェントに打診するも、「今のあなたの作品は、うちの他のフォトグラファーの作品と色が似ている」と断られた。しかし、「私も変わっていかないと」とへこたれずに彼女(エージェント)が求めているものに近づくための努力を重ね、コツコツと作品を撮りため、半年おきにチャレンジしていると、感心され、二年経ってやっとエージェントとしてついてくれることとなったのだった。仕事内容のほとんどが「食」関係。ウェブやSNSで作品を発信していくうちに、仕事のオファーもちょくちょくと入ってくるようになった。
月と太陽 Food by e.numa
2011年、「将来的に影響力を持つようになると思われたのか」水のポンプを視察し、記事を執筆してほしいと依頼を受け、アフリカのブルキナ・ファソを訪れ、カルチャーショックを受ける。生きていくのに必要不可欠とされる水でさえ、入手するのが困難な地域では、なにが必要で何が不必要なのか、「見えてくる」。この訪問を境に、MIHOさんはある目標を定めた。当たり前に生きるために必要なモノや食を提供できるようになりたい。今は自分のできる範囲で。そして、sajiで十分な利益を出せるようになったら、もっと積極的にサポートしていきたい…
ブルキナファソ訪問の際に出会った子供たちの笑顔
現在、写真の仕事、日本の出版の仕事、sajiの仕事等、忙しく活躍しているMIHOさん。先駆的なビジュアルを通して、現在の「食」を考えさせるきっかけを提案しているとは、想像もできないような柔らかく、のほほんとした空気を発しながら一言つぶやく。
「楽しく食べられるのが一番」。
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saji 最新号
「お雑煮ごっこ」
2019年1月に発売された、待望のsaji最新号のテーマは、お正月料理に欠かせない、お雑煮。欠かせないからこそ、お雑煮があるだけで、お正月気分を満喫できるのでは!?そんな気持ちで制作にかかったというこの号では、お雑煮の由来、餅の搗き方から出汁の取り方まで丁寧に説明されたお雑煮方レシピ、地域ごとで異なるお雑煮、縁起担ぎのお雑煮、そして先鋭シェフが提案するお雑煮アレンジなど、日本人でもなかなか知らないお雑煮トリビアが、おしゃれにエッジーに紹介されています。英仏訳付きなので、お雑煮ごっこの輪も広げやすそう!
取扱店は、こちらから http://www.saji-web.com/stockists/
オンラインショップは、こちらから https://saji.bigcartel.com/product/saji-ozoni
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saji miho