北里梨紗(循環器内科医 /博士研究員)
LISA KITASATO(きたさとりさ) 東京都まれ。幼少期をフランス、ドイツ、チェコで過ごし、12歳で日本に帰国。桐朋女子高等学校を卒業後、北里大学医学部に進学。医師免許取得後、同大学循環器内科に入局する。大和市立病院に出向後、北里大学大学院医療系研究科にて基礎研究を開始。2013年、フランス政府給費制度を受け、WHOの研究施設であるリヨンの国際癌研究機関に留学。2015年医学博士号取得。2015年より再度渡仏し、パスツール研究所/IMAGINE研究所を経て、現在ソルボンヌ大学理学部で心臓の細胞療法の研究に携わる。
語学を武器に突き進み
医療の発展に尽力する
パリ左岸、セーヌ川に面する古いコンクリートの建物、INSTITUT DE BIOLOGIE PARIS SEINE(IBPS)は、ソルボンヌ大学理学部の一角を占める同大学生物学部の研究所。北里梨紗さんはこの研究所内の心臓再生医療の研究室に籍を置く。医学界の名門一家の血筋を継ぐ彼女が、医師を志したのはまだ小さな少女の頃。苦労して習得した語学を「武器」に、自身のキャリアを築き進んでいった彼女がパリで出会ったものとは。
医者っていいな
北里梨紗さんの5代前の高祖父、北里柴三郎医学博士(1853-1931)は、ペスト菌発見、破傷風の治療法を開発するなど、感染症医学の発展に貢献し、「日本の細菌学の父」として知られている。そんな偉大な祖先を持ち、代々医療に携わる家系に生まれた北里さんも、例に外れることなく医師の道を歩むことになったのだが、それは決して「強制された」からではない。
北里さんが初めてフランスの地を踏んだのは、「外国」と言う概念すらない僅か3歳の幼女の頃。ウイルス学を専攻していた父がパリに留学することとなり、家族で移住した。地元の幼稚園に編入し、言葉も通じない、今までとは全く違う環境に、登園拒否になってしまったという。仏人恐怖症からなんとしてでも救いたい一心だったのか、週に一度、当時の仏人の幼稚園の先生が自宅まで来て、言葉の分からない彼女をただひたすら抱擁し続けた。その甲斐もあってか、少しずつ仏人、そして仏語が受け入れるようになっていった。
パリの幼稚園時代。「仏人恐怖症」を克服させてくれた先生とクラスメイト達と。
3年後、今度は父がドイツの研究所に移ることになるのだが、ようやく仏人に対して心を開いてきた彼女に、新たな言語を始めさせることを酷だと思った両親は、仏人学校がある30km離れた都市まで毎日車で送迎してくれた。それは、当時ドイツに駐留していた仏軍関係者の子供達たちのための学校だった。父の周りには医療関係者が多く「みんなとても優しくしてくれた」と目を細める。当時習っていたフィギュアスケートのコーチが小児科医だったこともあり、また外国人の彼女にも対等に接してくれるコーチと時間を過ごす内に「外国人に対する恐怖」が完全に薄れ、自然と自身も医師を志すようになったのだった。
言語は手段だ
週二日、仏人の家庭教師に勉強を見てもらっていたドイツ時代。ロシア皇帝の血筋を継ぐという貴族出身の教養深い家庭教師の彼女からは、語学だけではなく、文化・芸術全般、作法、そしてそれらを愛でる心までも教わった。少女時代から勉強が得意だった北里さんに、彼女は常に言っていたのだという。「リサが言語ができるのは確か。でも職業にはするのではなく、武器にしなさい。手段にしなさい」と。文化に使う時間を決して無駄と思ってはいけない… 語学を活かして、社会に貢献できるような人になりなさい。家庭教師の言葉が、若干5歳の少女の心を震わせた。彼女の教えの甲斐もあり、ドイツ生活の中盤には仏人学校で飛び級するまでに仏語が上達していた。
ドイツで3年過ごした後、今度はチェコへ引っ越し、日本人学校に通った北里さん。計9年をヨーロッパで過ごした後、中学進級を機に日本に帰国することとなった。
ドイツの仏人学校で。
入学したのは、帰国子女の多い都内の私立中学校。当たり前だが、全てが日本語の日常の中で、ふと思った。「私には明らかに日本の初等教育の一部が欠けている」。四字熟語、ことわざ、日本の地理… 日本で育ってきた人にとっては常識的なことばかりなのに、「国語の実力テストの慣用句の部分で0点を取ったこともあるんですよ」。しかし、彼女の医学部入学の夢は強くなる一方だった。
ようやくつかんだ医学部への切符
勉学はもちろんのこと、部活動(ダンス部)や学校行事にも熱心に取り組み、可能な限り良い条件で推薦を得るため、一心不乱に突き進んだ。
日本に帰国後、北里大学医学部微生物学教室に所属(現在は医療衛生学部)した父親を訪ねて、北里さんも同大学のキャンパスには中高生の頃より何度も足を運んでいた。先祖・北里柴三郎医師を学祖と仰ぐ北里大学だが、例え「この家に生まれて来なかったとしても絶対に」、緑に囲まれたこの素晴らしい学ぶ環境の中で医学を学びたいと思った。そのためにも、自身の「実力」を証明しなければならない… その覚悟で苦手だった国語や社会科の壁も克服。必死の努力の甲斐あって見事指定校推薦を獲得、入試も無事成功した北里さんは、晴れて北里大学医学部に籍を置くこととになったのだった。
病気を治したい
入学した頃は、「将来の進路は小児科かな?」と漠然と考えていた。いずれにしても、父のように研究職に就くことは「短気な私には無理!」と思い込んでいた。しかし、最終的に選んだのは「難しそう…」とずっと思っていた循環器内科。それも、研修医3か月目にして、「先輩に誘われて…」急遽同科を選択したのだ。
研修医として循環器内科をローテーションしていた当初は恐怖心に戦いていた。しかし救急医療の現場で揉まれていくうちに、大きな意義を感じるように。医師免許を取得仕立てでまだ右も左も分からない…そんな言い訳が通用するはずもなく、循環器疾患に苦しむ救急重症患者は次から次へと運ばれてくる。その都度、「先生どうしますか」と判断を迫られた。短時間で的確な病状解析、そして救命処置をしていかなければいけない。「わからないことだらけだったけれど、責任感と使命感を感じている先生方が周りにたくさんいらして…」。立場に関係なく、当直でないときでも患者の命を救うために団結する医師たち。そして実際完治して退院していく患者たち。「すごいなーって思ったんです」。論理的かつアカデミック、展開も結果も出るのが速い。病状を論理的に考えられる内科で「治っていける患者さんを診ていける…」。
腹を括った北里さんは、先輩医師達に見守られながら、より一層臨床業務に励んだ。ある日、しばらく生死を彷徨い、毎日病院に寝泊りして病状を見守っていたもののずっと鎮静下にいたため、北里さんのことを認識していないはずのある重病担当患者が、人工呼吸器を外した直後、彼女の目を見て言った。「先生、ありがとう」。「決して忘れることのできない」この瞬間に、「循環器内科を選んだ自分は間違っていなかった」と確信したのだった。
当時勤務していた市中病院の循環器呼吸器病棟の看護師さんたちと。
一生懸命「させてもらえた」
大学病院で研修医として二年間勤務後、3年目には二次救急病院で「リアルワールドを見てきなさい」という科の方針で、神奈川県の市中病院に出向することとなった。内科当直は一人、循環器内科の医師は4人と、当たり前だが、大学病院とは比較にならないほどの小所帯で、目の回るような忙しい日々を送るようになる。ひたむきに臨床患者と向き合い頑張る彼女を応援するかのように、いつ何時でも疑問質問に答えてくれる先輩医師に精神面でも支えられ、「安心して、一生懸命治療に専念させてもらえたんです」。
大学院時代。お世話になった研究室のメンバー。
こうして無事に一年を過ごした後、大学院に進むことにした。最初の半年は病棟医として臨床業務に従事し、また外病院での外来診療や当直業務と並行して、院のプロジェクトを詰めた。医学研究は主に患者のデータを使用し統計する「臨床研究」と、細胞や動物の実験を元にデータを取る「基礎研究」の二つに分かれる。子宮頸がんの原因ウィルスの研究に携わっていた父親の影響もあり、大学生時代から細胞生物学に興味を持っていた上、大学院の指導医であった東條准教授は素晴らしい基礎研究者でもあった。更に、将来的に留学を考えていた北里さんは、「世界の共通語はサイエンス(科学)」と考え、最終的に基礎研究を選択した。「まさか、父と同じ道を歩むようになるなんて!」。
2018年度ESC(ヨーロッパ循環器学会)のリサーチグラントを受賞。学会長に激励された。
一生懸命「させてもらえた」
基礎研究は時間がかかる。そして研究そのものを一から作り上げていかなければならない。「実験の「お作法」もわからないので、細胞培養室の消毒の仕方から教わって。文献を読んで実験の組み立て方を一から学んで…」。研究をするからには、学会発表は目標の一つだが、提出する抄録はたて続けに落選した。落胆していると、「あなたの抄録にはストーリー性がない」と指摘され、はっとした。「研究内容のことばかりに捉われて、私はどういう人たちの病気を治したいのか。そのためにどういう研究をしていきたいのかを思い描くことを怠っていたんです。自分のスケールの小ささを思い知らされました」。
そこからまるでふっきれたかのように抄録が国際学会で認められるようになり、学会で賞をもらえるようにまでなったのだった。そして…
フランス政府給費試験(毎年、在日仏大使館が募集する、仏留学のための奨学金)に見事合格し、2013年、フランス-リヨン市に一年間留学することになったのだった。
ESC(ヨーロッパ循環器学会)授賞式。
仏語ができて良かった
大学受験、また医学の勉強をするにあたっても「仏語は要らない能力なのでは」と思う節が幾度もあった。しかし、仏政府給費の面接で研究計画を発表した際、北里さんが用いたのは仏語。医師の留学志望生が仏語で発表するのは稀で、確実に「インパクト大」だった。またこの「功績」から、オランド前大統領日本訪問の際にスポークスマンとして選ばれることにも。仏政府給費生に選出後、瞬く間にフランスへの道がどんどん開いていった。「仏語ができてよかった、って心から思えました。もちろん、医者を志し、それまで諦めずにやってきたことも」と北里さん。
フランス政府給費生理系代表として、オランド元大統領来日時にスポークスマンを務めた。
中学生で日本に帰国して以来、失いつつあった「仏語の感覚」も、リヨンで暮らす内に徐々に取り戻した。
留学先のWHO研究所では「核内転写因子の研究」を行い、基礎実験のベースを学んだ。一年後日本に帰国し、博士号の学位を無事取得。帰国後は仏国民教育省が実施するDALF-C2も取得した。その年の東京会場で科学分野のDALF-C2(上級レベル。ネイティブでも合格は難しいとされている)受験生は彼女一人だったという。大学院卒業後再度、前述の市立病院で半年ほど循環器内科医長として勤務後、2015年から、パリのパスツール研究所に博士研究員(ポスドク)として招聘され、フランスでの新たなキャリアを展開することとなった。
パスツール研究所のラボメンバーたちと。
自分の意見を言い、協力を得る
パスツール研究所で二年弱、心筋細胞増殖のメカニズムについて研究した後、更に、医療現場に携わった者として臨床に近い研究がしたい、と次の研究の場にIBPSを選んだ。
バイオテクノロジー技術を駆使して、彼女が現在取り組んでいる「培養細胞を含んだ心筋シート」の研究(現在ラットを使用し実験中)が人間にも適応できるようになったら、「心臓病に苦しむ多くの患者の治療に役立つかもしれない」。思いを一つにした人々が、気の遠くなるような時間をかけて実験を重ね、データを取り、時には何度も繰り返す。そして、時には報われることなく実験を終了することもあるが、そんな時には「病気を治したい」という強い意志を思い出す。
北里さんが所属するIBPS研究室のディレクターと。
「研究内容は自由に提案できるのか」と言う問いに、「もちろん。むしろどんどん提案していかないと。間違っていてもいいから、とにかく自分の意見を積極的に出していく。そうしないと、何も考えていないと思われてしまいます」と北里さん。日本の様にたてわり意識のないフランスの研究所では、誰しもが驚くほど協力的で「とても研究しやすい」。指示を出すと、それぞれがきちんと動いてくれる。遅くまで残っているから良いとみなされるわけではない。効率よく良い研究を進めることが求められているからだ。日本では「頼める雰囲気ではない」と全て自分でしてしまっていたことも、フランスでは研究室内のチームワークが徹底されているので安心して頼ることができる。研究室内で医師は北里さん一人だけだが、「全然偉そうじゃないねって言われるんですよ」と嬉しそう。「医者であることが偉いと驕る人もたまにいますけど、研究の場では私は初心者。助けてもらっている身なんです。ここで働くうちに、自分本位にならず、常に謙虚でいたいと思うようになった気がします」。また、きちんと意見を出すからこそ、チーフからも信頼され、例えば新しい研究の予算も、思いがけず降りることもあるのだとか。
研究「しか」できないけれど
「リサ、ちょっといいかい?」。隣室の技術員がポスドク室を訪ねてきた。「ママが胸のあたりがずきずきするって言ってるんだけど、どうしたらいいかな」。症状の詳細を促しながら真剣な眼差しで話を聞く彼女は、内輪でこそアドバイスはできるものの、日仏間においての医師資格の国際的相互認証が存在しないため、フランスでは医師として診療ができない。日本で循環器内科医として働いていた頃は当直もあるし、休みも限られていた。重症入院患者を担当しているといつ呼ばれるかわからない。研究する時間があるとすれば、それは勤務を終えた後のみだった。しかし、パリでは「開き直って」一日中、思いっきり研究に専念することができる。それはつまり、自身の生活に関しても比較的「計画的」になれるということ。「プラニングさえしっかりすれば、区切り良く仕事を切り上げることもできるし、細胞を冷凍することで長期休暇に出ることもできるんですよ!」。
メリハリのある生活
フランスに来てから、特にパリで暮らすようになってからは、文化的な生活を思いっきり満喫しているという北里さん。コンサート、美術館、ヴェルニサージュ(オープニングパーティー)… 週に一度は必ず、何かしらのイベントに足を運ぶというが、それでも全て網羅することは不可能、「だからパリはすごい」と溜め息をつく。日仏交友160周年を記念してフランス各地で催された日本関連のイベントにも足繁く通い、「自分の国のことも深く勉強させてもらった」。日本だと「(料金が)高い、遠い、人が多い」と敬遠しがちなイベントも、パリはその限りではない。歩くのもバスに乗るのも、とにかく何をしても飽きることのないパリでの生活が「楽しくてたまらない」のも「研究と、文化鑑賞と…きちんとメリハリをつけることができるから」と分析する。
幼少期、ヨーロッパ滞在期間中に嗜んだ乗馬やスキーも、研究の合間を縫って楽しむことができる。日本での多忙な毎日からは想像すらできなかったであろう、そんな充実したパリ生活を語るにあたって、「感謝してもしきれない」と北里さんが断言する人々がいる。彼女が「パリの両親」と敬称する、あるフランス人ご夫妻だ。
「パリの両親」、ブノワさんとジュヌヴィエーヴさんと、自宅のエントランス・ホールで。
「パリの家族」に支えられて
パリ16区、閑静な住宅街に佇む19世紀後半に建てられたHOTEL PARTICULIER(屋敷)に暮らすブノワさんとジュヌヴィエーヴさんご夫妻とは、まだ日本で勤務医だった頃の夏休みに滞在した知人のお城での晩餐会で出会った。ちょうど日本旅行を計画中だった夫妻、そしてフランスへの留学を画策していた北里さんは意気投合し、その後も連絡を取り続けるように。北里さんのリヨン留学が決まると、彼らの所有するお城で開催された、ジュヌビエーブさんの先祖に関する本の出版記念パーティーに招待してくれた。そこで、フランスの名士と言われる方々に彼女を紹介してくれ、リヨン滞在がより実り多いものになるよう尽力してくれたのだった。 一旦は学位取得のために日本に帰国したが、パリ滞在の話が現実味を帯びてくると「我が家に増築したアパルトマンの空き部屋があるので」と、「ご近所」になることを提案してくれたのだ。
祖母が20世紀前半に購入したこの屋敷で生まれ育ったジュヌヴィエーヴさんは、「今でもこうしてここに住み続けることができるのは、大変幸せなことだと思っています」と静かに語る。2017年には、屋敷の「100周年」を祝うため親族を集め、年を重ねるうちに変貌を成し遂げた屋敷の写真を皆で鑑賞。共に食事を楽しんだ。その場に、着物姿で談笑する北里さんの姿もあった。「息子たちがいて、甥・姪たちがいて、その子供たちがいて。そしてリサも一緒にいてくれました。彼女は私たちの家族同然の、大事な人なのよ」、とジュヌヴィエーヴさん。「キモノ姿のリサはとっても素敵なの。ここの玄関ホールと和服のギャップも面白いでしょ」とまるで我が子の話をするように、アルバムの写真を見せてくれた。
「ドッグシッター」として、近所の柴犬・あらしくんをよく預かっている。ジュヌヴィエーヴさん、息子さんの犬ルーくんと一緒に散歩することも。
「パリに来たばかりの頃は、同年代の友人はいませんでした。その代わりと言っては失礼になってしまいますが、ご夫妻がまるで家族の様に親しくしてくださって…ちゃんとした仏語も、伝統的なしきたりも、フランスで暮らしていくにあたって必要な知恵を、改めて全て教えてくださったんです」と北里さん。
なんでも相談できる、暖かい「パリの家族」。日本には、右手骨折中は「左手でもピペットが使えるようになった」とかつて娘に自慢した父親、優しく見守る母親や弟が、医療の進歩のため努力を惜しまない北里さんの全てを受け入れ、支えてくれている。
今の彼女の「武器」となるものは間違いなく、語学だけではないはずだ。
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北里梨紗さんのお気に入りの店
シルヴァン・カフェ・メティス
©Shirvancafemetisse
パリ市内だけでも8軒の店舗を展開、国外でも次々と出店しているシェフ・アクラム(AKRAME)。柴犬を飼っているアクラム氏の家族とは、同じく柴犬のあらしくんの散歩中出会い、すぐに意気投合した。ご近所の縁もあり、彼の店に通うようになったのだが、その中でも気に入っているのがこの店。「パリの最もシックな界隈にいながら、シルクロードの旅に連れて行ってもらえる」。色彩豊かな料理は、見ているだけでも元気をもらえる。香辛料をたっぷり使っているのに、上品で重たくない。また「何品か頼んで皆でシェアして頂く」ことができるので、重宝しているのだそう。
SHIRVAN CAFE METISSE
5 place de l’Alma, 75008 Paris
Tel : 0147230948
営業時間 12時-14時半 19時半-22時半 (月火水日)19時半-22時45分 (木金土)
アクラム氏、そして彼の家族とも親しくしている。
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お知らせ
北里梨紗さんが、ピアニスト・角野隼斗氏のパリ・リサイタルを主催されます。
「私は幼少期より海外で育ち、たくさんの芸術、特に音楽と美術に触れてきました。また、四年前より海外で本格的に研究の世界に入り、研究者として周囲と対等に認められるよう奮闘しているうちに、日本で臨床医だけをやっているときは如何に周りの方々に守られていたか痛感しました。
そのような中、角野隼斗くんに出会いました。
現役東大大学院生の角野くんは、日本の著名なピアノコンクールで優勝を果たした直後に、私が在籍しているソルボンヌ大学理学部に人工知能の研究のため短期留学していました。
インターネットの動画で彼の繰り出す澄んだ美しい音と勢いのあるリズム感、音楽への愛情に溢れた演奏を初めて聴き、目と耳が釘付けになりました。さらに彼がパリで、分野は違えど私と同じキャンパスで、研究を遂行しながらもコンサートができる場所を探していると聞いたときに、今度は私が与える側に回ることができたら、と思うようになりました。
そしてこの度、ジュヌビエーブ達の力を借りて、伝統ある劇場Salle Cortotでの演奏が可能となりました。
PTNA特級グランプリ褒賞のウィーン公演の後、三ヶ月ぶりに角野くんがパリに戻ってきます。このような大きなホールで単独リサイタルを行うのも、パリでは彼にとって初めてのことです。このコンサートが、彼の素晴らしい門出となることを祈ってやみません」。
ご予約はこちらから。
Remerciements:
Lisa Kitasato, Geneviève et Benoit, Akrame et sa famille, Institut de Biologie Paris Seine-Equipe « Cellules Souches et Biothérapies ».
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